朝食のパンを切っていると、知らない音が聞こえてきた。それまで聞こえていた虫の声や車の音がぼんやりと滲むように広がって、音に全身を包まれたような気持ちになった。 彼女はよくこんな場面に出会う少女だった。見知った風景や聞きなれた音がふと知らない現象になる瞬間、その境界に出会うのをいつも楽しみにしていた。彼女はその境界を、親しみを込めて《鏡の目》と呼んでいた。《鏡の目》はいつも少女を見ていて、気が向くとふらりと少女の前に姿を現わすのだった。
少女は母と二人で暮らしていた。ある日少女は母に《鏡の目》のことを打ち明けたが、母はまともに取り合ってくれなかった。少女と《鏡の目》は段々二人だけの関係になっていった。 少女は《鏡の目》がいつも一方的に現れては消えることについて悩んでいた。自分はからかわれているんだろうかと思うこともあった。《鏡の目》の存在を知っている人間に出会ったことがない少女はいつも孤独を感じていた。なんとかして《鏡の目》と意思を交わすことができないものかと日々考えていた。 ある夜、少女は夢の中で《鏡の目》に出会おうと試みた。布団に入って目を瞑り、風景や音、空気に、自分の身体が溶け込むようないつもの感覚を思い出してみた。その感覚を思い出すだけでも楽しかった。瞼の裏は真っ暗なはずなのに風景がぐにゃりとゆがみ、触覚が身体を離れて下降していくようなあの不思議な感覚になるのだった。《鏡の目》と少女の戯れだった。
《鏡の目》は少女を連れ去ろうとした。《鏡の目》には少女がいつも以上に独りに見えた。少女はいつものように《鏡の目》の旋律にうっとりしていた。少女が《鏡の目》の前で目を開くと、《鏡の目》は少女の瞳をじっと覗き込んで、少女の視線を捕まえようとした。しかし、少女と《鏡の目》は目を合わせることができなかった。二人の視線の間にはぼんやりとした音色だけが滲み、だんだんと焦点が合わなくなっていくようだった。少女は再び落胆した。 その日の夕方、少女が夕飯の準備をしていると、窓から射す夕日がいつもより大きく揺らいでいることに気がついた。少女はいつもの仕業だと思い、夕日に微笑みながらスープを混ぜた。《鏡の目》は少女の頬にそっと触れると、少女の立つ台所を歪ませながら立ち消えた。