娘の住まう世界にはおそらく人がおらず、彼女は日々、五感、あるいは六感への刺激に感心するばかりだった。 ただ、その刺激を記憶することはなく、感情の芽生えることもない。彼女が涙を流すのは、何十年もあとのことになる。そして、彼女が老いることは決してありえないことだった。
我慢の末現れた、背のうちに広がる情景を凝視しながら娘は天国に思いを馳せた。霧の中に気持ちは静まり、頭を貫く声に耳を傾けているうちに眠りが誘う。涙は体のうちを駆け巡るばかりで外に出されることはなかった。
生きるに困った猫がまどろみ、レンガの熱が別れの節を告げる。娘は立ち止まり、どちらへ向かうべきか、しばし考えあぐねていた。
娘は星への道を尋ねた。漆黒の看板は静にこちらを見つめ返す。蜃気楼さえ吸い取っているようだった。
闇の中に不可思議なドアが並び立つ。娘はおもむろに一つのドアを選び、丁寧にノックした。一歩足を踏み入れてから床のないことに気づく。靴ははるか下、重力の元へ、ゆっくりと吸い込まれていった。娘は頑なに目を瞑り、決して風景をその目に映そうとはしなかった。
娘は飴色の、灼熱の星を目指した。光の点すら見当たらぬ風景に、方向だけが定まり、迷いなく進むことができた。足を踏み入れると暑さと甘さが刺す。ただたどり着いた安堵と満足感に、息を止めて沈んだ。時の支配者に挟まれた、歪んだ星。銀河を背にした星の語るは音の無い言葉だった。
ある例え話に、娘が目を見張る。それは期待の眼差しであるが、娘が動き出すことはない。なぜなら娘は、決して変化を望んでいるわけではなかった。お前が助かるはずはないと、壁は囁いたのである。
夢と現の間に幻を見た。壁は蠢きながらささやき、娘の手を血の色に染める。じいと眺め、一度閉じた手をひらくと、血の色は失せていた。
足元の声に目を向けると、猫の風がまた囁く。しゃがんで目を隠し、また自分の視界も閉ざすと、色のない世界へ落ち飛び上がった。空の海はしぶきを落とし、波と音はすぐに消える。娘は腹の上の壊れた羅針盤を疑った。
娘は青空に黒い星を見た。ただ在るそれに何がしかの兆しを読む。それが何であるかを自覚する必要はなかったのだが。直後、娘はその星を全て認知していることに気がついたのである。しばらく星を凝視したまま、その内の記憶について探して周った。それは邂逅であるかという、空に対しての自問自答。黒い星は音も立てずにこちらを見つめていた。
娘の疑問とひらめきを飲んだ日。その表情は不快に歪み、胸のうちにはニューロンの光景が広がるばかりだった。
娘は音のない寒さで目が覚めた。あたり一面が白い。娘はこの頃、知らぬものを本で知ることを覚えた。つい先ほどまで、自分が雪に埋まっていたことを知った。どおりでいつもよりページがうまく捲れないわけだ。
娘は絶えずゴロゴロと転がる猫が気になった。おもむろに近づきのぞき込むと、猫は恐れを感じたのか、目線を合わせたまま硬直する。それは、娘が初めて言葉を口にした日だった。何を思ったのか、ただ一言、猫に向かって「正しい?」と問うたのである。
娘は非言語的な納得の繰り返される会話に長く飢えていた。
娘は喋らぬ道化師であった。風に応え、身体を回す。行先を見据えて、静に佇むばかりだった。
娘は睡眠を損ねた朝、見知らぬ楽器を手にした時。彼女が奏でるは不協和音であり、しばらくの間言語化しづらい不快感に悩むことになる。
娘は夜明けに犬が吠える町に住みたいと思った。濃く深い青がしらんでいく様と吠える犬が心臓あたりの風通しをよくするような気がしたのだった。
娘はおもむろに本を手にし、唖然とする。目の前にちらつく小蝿を潰してしまってから、不必要な殺生はしたくないものだと思い立った。娘は虫の殺生についてしばし考える。おもに他人が殺しているのを見ながら。>例えば、水面に舞い降りた小蝿が足掻く様を見つめながら、湧き上がる快感は正しいものなのかと思案する。ぼうとしながら、何かに絶望している娘の目には西日が射している。なんとなく、疲れる光だった。
娘は風の内に意思を見出した。広がる草原は風に揺られるばかりで何かを教えてくれる様子はない。身の内に知り得ない何かが湧き上がるのを感じた。広大な草原に一人勇ましく立ち、娘は笛を数度鳴らした。おそらく風は祝福の意思であったが、娘はそれらが一方通行であることに気づいた。娘は叶うはずのない意思の疎通を願った。遠のく風を見つめたまま、娘は自分が涙を流していることに気がつくことはなかった。
娘は次元を跨ぎ、知覚が不可能になっていることについぞ気がつかなかった。気がついたのは隣を歩く黒猫だけであり、黒猫は戸惑いを隠しきれずにしばらく鳴き続けた。